第三の選択:企業幹部(エクゼクティブ)へ
40歳になって米系の大手医療・研究機器メーカーであるベックマン・コールター社へファイナンシャルコントローラーという役職で転職した。サン・マイクロシステムズの後、グラフィックコンピューテイングで一世を風靡したシリコングラフィックスを経てのキャリアチェンジであった。ファイナンシャルコンローラーという役職は日本企業では馴染みの薄い名前だが、所謂、経理財務部長職であり、企業の「財布」の元締め役である。当然ながら経営幹部の一員であり、当時の私のレポートライン(上司)は日本法人の社長ではなく、カリフォルニア本社のCFO(Chief Financial Officer)であった。つまり、社長のサポート役でもあるが、お目付け役という役割を持たされていた。
IT業界は当時ITバブル絶頂期であり、当時、仲間からは何故医療業界に転職するのか?という疑問の声も多くあったが、私は業界よりも期待されるポジションを優先する選択をした。IT業界は花形であったが、医療業界は医師や研究者との付き合いが大変という定着した地味なイメージがあり、花形を捨てた私の選択は当時の仲間からは想像つかない様であった。
2年間のコントローラー経験を経て、私のキャリアの中で初めて事業本部と呼ばれるオペレーション部門のトップ(事業部長)に就任することになった。営業、マーケテイング、カスタマーサポートという三部門から成る売上・利益と顧客満足に責任を持つ、まさに企業のエンジンである。経理企画部門であれば、売上が悪くても首になる心配はないが、事業部長はそうはいかない。顧客とのトラブルにも正面から対処しなければならない心労が深いし多い。
◆第四の選択:企業のトップへ
事業部長時代の功績が認められたのだと思うが、当時の日本法人社長であったアメリカ人から私へ彼の後継者(つまり日本法人の社長)にならないか、という打診があった。当時、私は45歳、外資系企業の中でもかなり若い社長として注目を浴びることとなる。その喜びもつかの間、大きな試練がやってきた。リストラである。
当時の会社は全世界的にリストラを計画しており、当然の如く、日本法人もその一定割合のリストラを要求されていた。リストラというと人員削減が真っ先に頭をよぎるが、リストラクチャリング(組織の構造や仕組みを変えること)であるので、人員削減は勿論だが、古く錆びついた構造を今後の新たなビジネスモデルに変化させるというポジティブ(前向き)な戦略が本来の意味するところである。
そこで私が採った策の一つに、「社員満足度調査」があった。別名、360度調査とも言われ、第三社のコンサルティング会社を使って、様々な角度から社員の意見を吸い上げる仕組みである。リストラクチャリングを実現させるためには、「現状」を客観的に把握する必要があると判断したからだ。最近は多くの企業も採用しているが、私は、「結果の公開」を社員に宣言するという大胆な決定をした。コンサルティング会社からは、「多くの経営者は結果を公開すると言いながらも、結果を見た瞬間にほとんどの人が公開を断念するのですが・・・」と問い正されたが、「妙な」自信に溢れていた私の決定は「GO」であった。
調査結果を見て愕然としたことを昨日のことのようにはっきりと覚えている。各質問項目のスコアは悪く、自由記載(無記名式)のコメントは、なんと700件を超え、その内容たるや手厳しいものが七割以上を占めていた。まさに、「裸の王様」が証明された瞬間だった。時期を同じくして、マーシャルの「できる人の法則」に出会うことが出来たのはラッキーだったとしか言いようがない。360度調査結果と「できる人の法則」のお蔭で、「裸の王様」から脱出できる「きっかけ」ができたのである。
この頃から私はリーダーシップスタイルをボス型からサーバント型へ変革することを試みることになった。とは言っても、客観的に自分を客観的に見ることは容易いことではなく、知らぬ間についつい悪癖が出てしまっていたことは、今から思えば、恥ずかしい限りである。こんな試行錯誤のもとで、社長として経営判断という重要な「選択」を日々求められていたわけで、その重圧たるや、相当に過酷なものであった。「結果が全て」とは言いたくないが、部下や親会社から見える領域は「結果」のみであり、プロセスではない。結果を早く出さなくてはならない。時間をかけられない。でも、焦ると組織が上手く展開しない。こんなある種矛盾する2つの両輪をバランスよく最高速で且つガラスの芸術品を壊すことなく進めていくことは、マネジメントの難しさでもあるし、また醍醐味でもあった。(つづく)