2012年9月30日日曜日

♪NO.6♪ 社長からエグゼクティブコーチになったわけ Vol.3


第三の選択:企業幹部(エクゼクティブ)へ
40歳になって米系の大手医療・研究機器メーカーであるベックマン・コールター社へファイナンシャルコントローラーという役職で転職した。サン・マイクロシステムズの後、グラフィックコンピューテイングで一世を風靡したシリコングラフィックスを経てのキャリアチェンジであった。ファイナンシャルコンローラーという役職は日本企業では馴染みの薄い名前だが、所謂、経理財務部長職であり、企業の「財布」の元締め役である。当然ながら経営幹部の一員であり、当時の私のレポートライン(上司)は日本法人の社長ではなく、カリフォルニア本社のCFO(Chief Financial Officer)であった。つまり、社長のサポート役でもあるが、お目付け役という役割を持たされていた。
 
IT業界は当時ITバブル絶頂期であり、当時、仲間からは何故医療業界に転職するのか?という疑問の声も多くあったが、私は業界よりも期待されるポジションを優先する選択をした。IT業界は花形であったが、医療業界は医師や研究者との付き合いが大変という定着した地味なイメージがあり、花形を捨てた私の選択は当時の仲間からは想像つかない様であった。
 
 2年間のコントローラー経験を経て、私のキャリアの中で初めて事業本部と呼ばれるオペレーション部門のトップ(事業部長)に就任することになった。営業、マーケテイング、カスタマーサポートという三部門から成る売上・利益と顧客満足に責任を持つ、まさに企業のエンジンである。経理企画部門であれば、売上が悪くても首になる心配はないが、事業部長はそうはいかない。顧客とのトラブルにも正面から対処しなければならない心労が深いし多い。
 
 事業部長に就任当初から私のリーダーシップスタイルはトップダウン型(ボス型)であった。部門の業績が低下傾向にあったため、その立て直しに躍起になっていた。自ら顧客訪問を年間百軒以上こなし、顧客の意見・満足度を吸い上げて、経営に活かしていた。その甲斐あってか、業績は回復を見せ始めたが、その一方で、徐々に自分が「裸の王様」になりつつあったのを、まったく気づく由もなかったのである。経理のトップであるコントローラーからオペレーションのトップである事業部長へのキャリアチェンジは、もう二度と経理企画系の業務に戻ることのない「選択」であったし、その選択がその後の社長への大きな足掛かりとなった。


第四の選択:企業のトップへ

事業部長時代の功績が認められたのだと思うが、当時の日本法人社長であったアメリカ人から私へ彼の後継者(つまり日本法人の社長)にならないか、という打診があった。当時、私は45歳、外資系企業の中でもかなり若い社長として注目を浴びることとなる。その喜びもつかの間、大きな試練がやってきた。リストラである。

当時の会社は全世界的にリストラを計画しており、当然の如く、日本法人もその一定割合のリストラを要求されていた。リストラというと人員削減が真っ先に頭をよぎるが、リストラクチャリング(組織の構造や仕組みを変えること)であるので、人員削減は勿論だが、古く錆びついた構造を今後の新たなビジネスモデルに変化させるというポジティブ(前向き)な戦略が本来の意味するところである。

そこで私が採った策の一つに、「社員満足度調査」があった。別名、360度調査とも言われ、第三社のコンサルティング会社を使って、様々な角度から社員の意見を吸い上げる仕組みである。リストラクチャリングを実現させるためには、「現状」を客観的に把握する必要があると判断したからだ。最近は多くの企業も採用しているが、私は、「結果の公開」を社員に宣言するという大胆な決定をした。コンサルティング会社からは、「多くの経営者は結果を公開すると言いながらも、結果を見た瞬間にほとんどの人が公開を断念するのですが・・・」と問い正されたが、「妙な」自信に溢れていた私の決定は「GO」であった。

調査結果を見て愕然としたことを昨日のことのようにはっきりと覚えている。各質問項目のスコアは悪く、自由記載(無記名式)のコメントは、なんと700件を超え、その内容たるや手厳しいものが七割以上を占めていた。まさに、「裸の王様」が証明された瞬間だった。時期を同じくして、マーシャルの「できる人の法則」に出会うことが出来たのはラッキーだったとしか言いようがない。360度調査結果と「できる人の法則」のお蔭で、「裸の王様」から脱出できる「きっかけ」ができたのである。
 

この頃から私はリーダーシップスタイルをボス型からサーバント型へ変革することを試みることになった。とは言っても、客観的に自分を客観的に見ることは容易いことではなく、知らぬ間についつい悪癖が出てしまっていたことは、今から思えば、恥ずかしい限りである。こんな試行錯誤のもとで、社長として経営判断という重要な「選択」を日々求められていたわけで、その重圧たるや、相当に過酷なものであった。「結果が全て」とは言いたくないが、部下や親会社から見える領域は「結果」のみであり、プロセスではない。結果を早く出さなくてはならない。時間をかけられない。でも、焦ると組織が上手く展開しない。こんなある種矛盾する2つの両輪をバランスよく最高速で且つガラスの芸術品を壊すことなく進めていくことは、マネジメントの難しさでもあるし、また醍醐味でもあった。(つづく)

2012年9月21日金曜日

♪NO.5♪ 社長からエグゼクティブコーチになったわけ Vol.2


第二の選択:最先端の世界への挑戦

自由なブラジルから33歳で帰国した私には日本での会社員生活は相当窮屈であった。帰国後に配属になったのは、当時の会社では所謂事務系のエリートコースの資材部であった。製造メーカーの中で非鉄金属原料の世界でも有数な購入実績を誇る部門であった故、極めて日本的なメーカー・商社の付き合いにワクワク感は薄かった。

悶々としていた最中に外資系のITメーカーであるサン・マイクロシステムズの日本法人から声がかかったのは、まさに「渡りに船」状態で、何の迷いもなく転職を決意した。今となっては、30代の転職は当たり前だが、当時は、終身雇用が鉄壁な制度として企業に根付いていた時代。当時、課長補佐としてバリバリの中堅社員が自らの意思で会社を辞めることは企業側も「想定外」であったに違いない。しかるに、上司や人事部の引き留め工作は凄まじいものがあり、上司には十回以上も飲みながらの説得に合うことになる。妻をはじめ親兄弟までが「何故転職か?」という疑問を持つ時代背景というのがつい二十年前だったことを考えると、この間の価値観の変遷のスピードは隔世の感がある。
 
写真はイメージです

こんな説得を振り切る形で、自分の「選択」をした私を世間の見る目は決して温かくはなかった。「失敗するんじゃないか」「無謀だ」「敢えていばらの途を・・」などと揶揄(やゆ)する先輩同僚もいて、その反動もあり、「絶対に悔いのない選択をしたと言える結果を残そう」と心に固く誓ったものである。
 
サン・マイクロシステムズは当時ITバブルの初期の段階で「シリコンバレーの星」と呼ばれて巨人IBMを倒さんとする勢いのある最先端企業であった(2010年にオラクルに買収された)。入社してまず驚いたのが、オフィスの背の高いブース。三方を人の背丈程のパーテションで囲まれているので、着席すると隣の人が全く見えない。また、一人あたりのスペースが広くて、贅沢な空間である。いわゆるキューブとよばれるもので、オフィスの入り口を入った瞬間からキューブしか視界に入らない世界はまさにこれまでのオフィス概念を360度覆すものであった。

輪をかけてショックだったのが、インターネットが1993年当時、今から約20年前に職場で使われていたことであった。一人一台のパソコン(正確には一台300万円の高級ワークステーション)が与えられ、大量のメールが社内で飛び交う、今では当たり前の光景が、既にこの時代に社内のコミュニケーションツールとして存在していた。経営幹部も平社員も全員がメールを使いこなす文化にはさすがに戸惑ったし、異次元空間の体験の毎日であった。

キューブやメールといったものだけでなく、この会社には最先端の「サン・ユニバーシティ」と呼ばれる最先端の社員教育システムがあった。グローバル社員を本社に集めての徹底した訓練である。ここでは、最先端のマネジメントやリーダーシップについて学んだ他、世界中の逸材から、スピード感、プレゼンテーションスタイル、アカウンタビリティ(自主性)などに触れることができ、30代前半で最先端マネジメントテクノロジーを経験できたことは、その後の私のキャリア形成に大きなプラスの影響をもたらしたといっても過言ではない。

写真はイメージです
 
日本企業に安住していたならば、どういう人生を送っていたのであろうか?と時々振り返ることがある。それは、50歳になってから年に一度開かれる同期入社の会で、多くの同期入社仲間と再会するときである。それぞれの選択をしてきた皆の人生を見ることが出来る瞬間である。同じ日本企業で頑張っている人、転職して苦労している人、独立して起業している人・・・人生のどのシーンでどの選択権のカードを切ったかの結果が興味深い。(つづく)

2012年9月14日金曜日

♪NO.4♪ 社長からエグゼクティブコーチになったわけVol.1(5回シリーズ)


プロローグ

「エグゼクティブコーチって何ですか?」・・・昨年の秋に私が会社を退職する挨拶訪問をしていた時に必ずと言っていいほど聞かれた質問である。二〇一一年の秋、私は三〇年間に亘る会社員生活を卒業し独立してビジネスをスタートさせる決意をもとに準備を始めた一方で、それまでにお世話になった多くの方々への挨拶回りと業務の引継ぎに忙しくしていた。

私がエグゼクテイブコーチングの存在を知ったのは、今からさかのぼること五年前の二〇〇七年。コーチングの神様と呼ばれ、米ジェネラル・エレクトリック社の元CEOであったジャック・ウエルチ氏をコーチングしたマーシャル・ゴールドスミス氏の著書「コーチングの神様が教えるできる人の法則」(日本経済新聞出版社)をその訳者である斎藤聖美さんから直々に頂戴したのがきっかけであった。

                       (日本経済新聞出版社)

斎藤さんは、現在、ジェイ・ボンド東短証券株式会社の社長であり、経済同友会の先輩で同じ産業懇談会グループのメンバーで大学も先輩ということもあって、外資系の日本法人社長に就任して間もない私に参考になるのでは、との思いで、出版直後の出来たてほやほやの訳書を自らのサイン入りで下さったのだと思う。タイトルが強烈だったこともあり、頂いたその日に一挙に読み切った記憶が今でも鮮明に残っていて、当時、社長に就任して一年経過して、裸の王様になりかけていた自分にとって、まさに救世主のような本であった。

このような衝撃的な出会いがあり、今から思えば、それがきっかけでエグゼクティブコーチの人生を歩み始めたわけだが、私のビジネスパーソンとしての過去三〇年間を振り返ると、多くの出会いと選択の連続であったといえる。その足跡を振り返りながら、今回、何故、エグゼクティブコーチという職業を選択するに至ったか、ミッションは何か、についてご紹介したいと思う。

 

第一の選択:異文化へ

大学を出て、普通に日本企業に就職し人事の仕事に就き、三年目で海外事業部へ転籍、ここで第一の大きな転機が訪れた。入社六年で海外赴任のチャンスを得たのである。しかも赴任先は情熱の国ブラジル。アメリカかブラジルかという選択肢のなかで、私はブラジルを「選択」した。アメリカ赴任は当時の憧れであったが、「アメリカには年を取ってからでも駐在できるがブラジル日本から遠い未知の国なので若い時に経験しておこう」という判断だった。

今では、オリンピックとサッカーワールドカップを同時開催できるBRICsの雄にまで成長したブラジルであるが、私が駐在した一九八〇年後半から九〇年代にかけては、世界最大の債務国でインフレは年率三〇〇〇パーセント(物価が年で三〇倍)を超える異常な国で、景気も最悪の状態であった。その頃の日本はどうであったと言えば、バブル絶頂期で、たまに一時帰国すると、「着いていけない」贅沢な生活をエンジョイする世界があった。

一方、ブラジルと言えば、インフレに加え、サンパウロでは一日に平均二件起きる銀行強盗、一日五00台の自動車盗難など、異文化体験といって笑えない状況であった。それにも関わらず、楽しく充実した記憶に満ち溢れているのは、根っから明るいブラジル文化の恩恵であった。実際に、リオのカーニバルの体験は、ある種のカルチャーショックを受けた感じで、決して経済的には豊かとは言えない人たちが乱舞する姿は、日本では考えられない国の潜在能力を当時から示していた気がする。

仕事でも興味深い体験をした。熱くなる国民性なので、会議などで激論というか口論をすることも多いのだが、一旦、オフィスを出ると、彼らは一緒に飲食し、週末は家族同士でBBQに出かけるという線引きがある。オンとオフがしっかりしている。上司も職場で上司を演じているだけで、プライベートで上司風を吹かせることはない。この様な人生の楽しみ方を知った私にとっては人生観を変えるきっかけとなり、日本に帰国して、先々外資系企業に転職をする意思が固まりつつあった。

ブラジルではなく、アメリカ赴任を選択していたらどういう人生だったのであろうか。出会う人も違っただろうし、体験したカルチャーも全く正反対で、おそらく、英語も早く上手くなっていただろうがポルトガル語には一生無縁だったであろう。また、海外赴任そのものを拒否していたならば、どうだろうか?今頃はドメステイックな人間に染まっていたかもしない。ブラジル赴任は、その後の私のビジネスパーソンキャリア形成の最初の大きな選択であったのである(つづく)。