◆プロローグ
「エグゼクティブコーチって何ですか?」・・・昨年の秋に私が会社を退職する挨拶訪問をしていた時に必ずと言っていいほど聞かれた質問である。二〇一一年の秋、私は三〇年間に亘る会社員生活を卒業し独立してビジネスをスタートさせる決意をもとに準備を始めた一方で、それまでにお世話になった多くの方々への挨拶回りと業務の引継ぎに忙しくしていた。
私がエグゼクテイブコーチングの存在を知ったのは、今からさかのぼること五年前の二〇〇七年。コーチングの神様と呼ばれ、米ジェネラル・エレクトリック社の元CEOであったジャック・ウエルチ氏をコーチングしたマーシャル・ゴールドスミス氏の著書「コーチングの神様が教えるできる人の法則」(日本経済新聞出版社)をその訳者である斎藤聖美さんから直々に頂戴したのがきっかけであった。
(日本経済新聞出版社)
斎藤さんは、現在、ジェイ・ボンド東短証券株式会社の社長であり、経済同友会の先輩で同じ産業懇談会グループのメンバーで大学も先輩ということもあって、外資系の日本法人社長に就任して間もない私に参考になるのでは、との思いで、出版直後の出来たてほやほやの訳書を自らのサイン入りで下さったのだと思う。タイトルが強烈だったこともあり、頂いたその日に一挙に読み切った記憶が今でも鮮明に残っていて、当時、社長に就任して一年経過して、裸の王様になりかけていた自分にとって、まさに救世主のような本であった。
このような衝撃的な出会いがあり、今から思えば、それがきっかけでエグゼクティブコーチの人生を歩み始めたわけだが、私のビジネスパーソンとしての過去三〇年間を振り返ると、多くの出会いと選択の連続であったといえる。その足跡を振り返りながら、今回、何故、エグゼクティブコーチという職業を選択するに至ったか、ミッションは何か、についてご紹介したいと思う。
◆第一の選択:異文化へ
大学を出て、普通に日本企業に就職し人事の仕事に就き、三年目で海外事業部へ転籍、ここで第一の大きな転機が訪れた。入社六年で海外赴任のチャンスを得たのである。しかも赴任先は情熱の国ブラジル。アメリカかブラジルかという選択肢のなかで、私はブラジルを「選択」した。アメリカ赴任は当時の憧れであったが、「アメリカには年を取ってからでも駐在できるがブラジル日本から遠い未知の国なので若い時に経験しておこう」という判断だった。
今では、オリンピックとサッカーワールドカップを同時開催できるBRICsの雄にまで成長したブラジルであるが、私が駐在した一九八〇年後半から九〇年代にかけては、世界最大の債務国でインフレは年率三〇〇〇パーセント(物価が年で三〇倍)を超える異常な国で、景気も最悪の状態であった。その頃の日本はどうであったと言えば、バブル絶頂期で、たまに一時帰国すると、「着いていけない」贅沢な生活をエンジョイする世界があった。
一方、ブラジルと言えば、インフレに加え、サンパウロでは一日に平均二件起きる銀行強盗、一日五00台の自動車盗難など、異文化体験といって笑えない状況であった。それにも関わらず、楽しく充実した記憶に満ち溢れているのは、根っから明るいブラジル文化の恩恵であった。実際に、リオのカーニバルの体験は、ある種のカルチャーショックを受けた感じで、決して経済的には豊かとは言えない人たちが乱舞する姿は、日本では考えられない国の潜在能力を当時から示していた気がする。
仕事でも興味深い体験をした。熱くなる国民性なので、会議などで激論というか口論をすることも多いのだが、一旦、オフィスを出ると、彼らは一緒に飲食し、週末は家族同士でBBQに出かけるという線引きがある。オンとオフがしっかりしている。上司も職場で上司を演じているだけで、プライベートで上司風を吹かせることはない。この様な人生の楽しみ方を知った私にとっては人生観を変えるきっかけとなり、日本に帰国して、先々外資系企業に転職をする意思が固まりつつあった。
ブラジルではなく、アメリカ赴任を選択していたらどういう人生だったのであろうか。出会う人も違っただろうし、体験したカルチャーも全く正反対で、おそらく、英語も早く上手くなっていただろうがポルトガル語には一生無縁だったであろう。また、海外赴任そのものを拒否していたならば、どうだろうか?今頃はドメステイックな人間に染まっていたかもしない。ブラジル赴任は、その後の私のビジネスパーソンキャリア形成の最初の大きな選択であったのである(つづく)。